2009/05/30
1. 小泉構造改革とその負の遺産 -6) 地域間格差・地方の疲弊
(1) シャッター通りと化した地方都市の中心市街地
日本の地方中核都市はどこも同じ景色で、まったく特徴のない町に変貌していることは多くの人たちが気づいているところではないでしょうか。昔は、その都市の中心であり賑わっていた商店街通りは今やシャッター通りと化し、一方郊外では広大な駐車場を備えた大型ショッピングセンターやモールが林立している映像が一般的となってきています。
このような現象を引き起こした原因の一つは、1974年施行の「大規模小売店舗法」、すなわち大店法と呼ばれる法律であり、中心市街地の商店街を維持するはずが、逆に大型商業施設の郊外出店を加速させ、商店街の衰退を招くことになったと言われています。
このことを反省して00年に大店法が廃止され、出店規制の一部を緩和した「大規模小売店舗立地法」が「都市計画法」および「中心市街地活性化法」の二法と合わせ、「まちづくり三法」として施行されました。ところが、郊外での大型店の新規出店は増加し続け、中心市街地の商店街は一段と落ち込み、シャッター通りと化したのです。
さすがの自民党もこの中心市街地の疲弊を「自己責任」として見過ごすことはできなかったのです。そこで、06年にまちづくり三法を改正し、07年に施行しました。この改正まちづくり三法は新自由主義経済下ですべての公的規制が緩和される中にあって、逆に延べ床面積が1万平方メートルを超える大型集客施設の郊外立地を原則禁止し、街の機能を中心市街地に集中させるコンパクトシティの考え方に基づいた内容に改めたものです(まちづくり三法の見直し -中心市街地の活性化に向けてー、国立国会図書館 ISSUE BRIEF NUMBER 513, 2006年2月22日)。
この改正三法により、大規模商業施設を展開していた組織小売業が、次に中心市街地における小型スーパーやコンビニなどの分野に力を注ぎ始めれば、既存店との間の出店競争を激化させることが懸念されているのです。資本力のない弱小既存店が閉店に追い込まれるなど、多くの副作用が生まれる懸念があるが、この競争激化による弱肉強食社会の展開は、むしろ新自由主義の望むところなのです。
この商店街のシャッター通りに象徴されるような地方経済の疲弊は、新自由主義・市場原理に基づく小泉構造改革による地方切り捨てに加えて、グローバル経済の進展によりさらに深刻なものになったのです。市場原理にもとづく経済合理性を追求し日本経済の活性化を図った小泉構造改革は、後で述べるように税による地方への富の再配分を削減し、地方自治体にも医療や福祉などの行政サービスの切り捨てを強要したのです。
一方では、投資効率のよい東京などの大都市部に富を集中投資し、地方の工場は閉鎖に追い込むと共に、より人件費などのコストの安い中国などに移転させることにより、地方産業を空洞化させました。それに伴い、地方から大都市部への人口流出が起こり、地方の人口減少と高齢化を加速させることになったのです。
(2) 地方への税による富の再配分抑制と地方経済の疲弊
小泉構造改革は小さな政府を指向し、公共事業の大幅な削減や福祉の切り捨てを行い、さらに地方自治体に対しても、行政サービスの縮小や切り捨てを強要したのです。
その一つの手段として「地方構造改革」・「三位一体の改革」と称して、4.7兆円の国庫補助金削減および5.1兆円の地方交付税抑制を実施しました。これに対する地方への税源移譲は全体でわずか約3兆円にすぎないものでした。このひも付きでない地方への税源移譲は地方分権を促進する意味で好ましいものであるが、そのためには中央から地方への権限移譲も伴わなければならないのです。
中央官僚がみずからの権限を手放してまで地方に移譲することなどはあり得ず、小泉内閣による三位一体改革は、地方構造改革、地方分権促進には無縁のゴマカシ改革以外のなにものでもなかったのです。小泉構造改革は結局のところ、地方への税の再配分を抑制しただけで、中央から地方への権限移譲などの根本的な改革を行わず、地方分権を促進するどころか、むしろ地方の疲弊を促進したに過ぎなかったのです。
そもそも新自由主義というものは小さい政府を指向し、国家による福祉・医療などの行政サービスを削減するとともに、地方自治体にも同様に弱者切り捨てを求めるので、これまでの様に大きな政府による大都市部から地方への税による富の再配分を否定するのは当然のことなのです。
竹中流の新自由主義論理に従えば、国家による大都市部の税(富)を地方に再配分することは日本経済を均衡させ疲弊させるだけであり、強い都市部に税(富)を再投資されなければ、グローバル経済に生き残れないということになるのでしょう。小泉・竹中らの新自由主義者の期待通り、より強い大都市部はより強くなり、戦後最長の「いざなぎ景気」を超えたといわれた「平成景気」の中で景気の好況感を味わうことができたが、地方は弱者として益々疲弊していき、決して景気が良くなることはなかったのです。
このことが、07年の参議院選挙で自民党が地方の一人区で惨敗した大きな原因の一つなのです。本来なら、新自由主義の理論に従えば、弱肉強食社会でますます強者となった大都市部は弱者である地方を底上げするはずであったが、地方の底上げなどには目もくれなかったのです。
このように、ヒトだけでなく、地域間であっても、弱肉強食社会の勝者である強者(大都市部)は、負け組である弱者(地方)の底上げを図ることなどは決して期待し得ないことであり、新自由主義に基づく小泉構造改革は明らかにペテンのなにものでもないことがここでも証明されているのです。竹中をはじめとする新自由主義者らは自信家であり、雄弁で演説もうまく、多くの無知な国民は騙されてしまったのです。
新自由主義がもたらした実態は、国民が期待していたものとは全くかけ離れたものであったにもかかわらず、依然として小泉構造改革を支持する大きな勢力が自民党だけでなく、民主党にも存在するということです。特に、政権交代が期待されている民主党において小泉構造改革の総括が行われていないことは非常に残念なことです。
小泉政権が成立した当時、鳩山民主党代表は小泉首相との党首討論で小泉構造改革の中身の点検を充分にしないで、まず「賛成だ」として「小泉構造改革を進める小泉政権の背中を押す」とのエールを送ったのではないでしょうか。さらに、現在に至っても未だに民主党の前原グループを中心とした若手集団に小泉構造改革推進勢力が多く、小泉元首相との連絡を密に保っているのです。
問題なのは、民主党がかって賛同した小泉構造改革に対して、未だに党としての総括をしないで曖昧にしていることなのです。
このような状態のままの二大政党間で総選挙しても、日本の進むべき道に関して国民が選択できる対立軸がなく、たとえ政権交代がなされたとしても日本の将来に大きな期待が持てないのではないでしょうか。
このような事態をもたらしているもう一つの大きな原因は、権力に迎合し、批判精神を欠落したマスメディアにあり、さらに小泉構造改革の功罪さえも総括しないマスメディアの責任は非常に大きいと言わざるを得ないのです。小泉構造改革に無批判で、かつ未だに事あるごとに小泉元首相を持ち上げるマスメディアやさらなる構造改革の徹底を唱える政治家に今後の日本の将来を委ねることは、日本社会崩壊という取り返しのつかない結末を迎える可能性が高く、極めて危険であると言わざるを得ないのです。
日本の地方中核都市はどこも同じ景色で、まったく特徴のない町に変貌していることは多くの人たちが気づいているところではないでしょうか。昔は、その都市の中心であり賑わっていた商店街通りは今やシャッター通りと化し、一方郊外では広大な駐車場を備えた大型ショッピングセンターやモールが林立している映像が一般的となってきています。
このような現象を引き起こした原因の一つは、1974年施行の「大規模小売店舗法」、すなわち大店法と呼ばれる法律であり、中心市街地の商店街を維持するはずが、逆に大型商業施設の郊外出店を加速させ、商店街の衰退を招くことになったと言われています。
このことを反省して00年に大店法が廃止され、出店規制の一部を緩和した「大規模小売店舗立地法」が「都市計画法」および「中心市街地活性化法」の二法と合わせ、「まちづくり三法」として施行されました。ところが、郊外での大型店の新規出店は増加し続け、中心市街地の商店街は一段と落ち込み、シャッター通りと化したのです。
さすがの自民党もこの中心市街地の疲弊を「自己責任」として見過ごすことはできなかったのです。そこで、06年にまちづくり三法を改正し、07年に施行しました。この改正まちづくり三法は新自由主義経済下ですべての公的規制が緩和される中にあって、逆に延べ床面積が1万平方メートルを超える大型集客施設の郊外立地を原則禁止し、街の機能を中心市街地に集中させるコンパクトシティの考え方に基づいた内容に改めたものです(まちづくり三法の見直し -中心市街地の活性化に向けてー、国立国会図書館 ISSUE BRIEF NUMBER 513, 2006年2月22日)。
この改正三法により、大規模商業施設を展開していた組織小売業が、次に中心市街地における小型スーパーやコンビニなどの分野に力を注ぎ始めれば、既存店との間の出店競争を激化させることが懸念されているのです。資本力のない弱小既存店が閉店に追い込まれるなど、多くの副作用が生まれる懸念があるが、この競争激化による弱肉強食社会の展開は、むしろ新自由主義の望むところなのです。
この商店街のシャッター通りに象徴されるような地方経済の疲弊は、新自由主義・市場原理に基づく小泉構造改革による地方切り捨てに加えて、グローバル経済の進展によりさらに深刻なものになったのです。市場原理にもとづく経済合理性を追求し日本経済の活性化を図った小泉構造改革は、後で述べるように税による地方への富の再配分を削減し、地方自治体にも医療や福祉などの行政サービスの切り捨てを強要したのです。
一方では、投資効率のよい東京などの大都市部に富を集中投資し、地方の工場は閉鎖に追い込むと共に、より人件費などのコストの安い中国などに移転させることにより、地方産業を空洞化させました。それに伴い、地方から大都市部への人口流出が起こり、地方の人口減少と高齢化を加速させることになったのです。
(2) 地方への税による富の再配分抑制と地方経済の疲弊
小泉構造改革は小さな政府を指向し、公共事業の大幅な削減や福祉の切り捨てを行い、さらに地方自治体に対しても、行政サービスの縮小や切り捨てを強要したのです。
その一つの手段として「地方構造改革」・「三位一体の改革」と称して、4.7兆円の国庫補助金削減および5.1兆円の地方交付税抑制を実施しました。これに対する地方への税源移譲は全体でわずか約3兆円にすぎないものでした。このひも付きでない地方への税源移譲は地方分権を促進する意味で好ましいものであるが、そのためには中央から地方への権限移譲も伴わなければならないのです。
中央官僚がみずからの権限を手放してまで地方に移譲することなどはあり得ず、小泉内閣による三位一体改革は、地方構造改革、地方分権促進には無縁のゴマカシ改革以外のなにものでもなかったのです。小泉構造改革は結局のところ、地方への税の再配分を抑制しただけで、中央から地方への権限移譲などの根本的な改革を行わず、地方分権を促進するどころか、むしろ地方の疲弊を促進したに過ぎなかったのです。
そもそも新自由主義というものは小さい政府を指向し、国家による福祉・医療などの行政サービスを削減するとともに、地方自治体にも同様に弱者切り捨てを求めるので、これまでの様に大きな政府による大都市部から地方への税による富の再配分を否定するのは当然のことなのです。
竹中流の新自由主義論理に従えば、国家による大都市部の税(富)を地方に再配分することは日本経済を均衡させ疲弊させるだけであり、強い都市部に税(富)を再投資されなければ、グローバル経済に生き残れないということになるのでしょう。小泉・竹中らの新自由主義者の期待通り、より強い大都市部はより強くなり、戦後最長の「いざなぎ景気」を超えたといわれた「平成景気」の中で景気の好況感を味わうことができたが、地方は弱者として益々疲弊していき、決して景気が良くなることはなかったのです。
このことが、07年の参議院選挙で自民党が地方の一人区で惨敗した大きな原因の一つなのです。本来なら、新自由主義の理論に従えば、弱肉強食社会でますます強者となった大都市部は弱者である地方を底上げするはずであったが、地方の底上げなどには目もくれなかったのです。
このように、ヒトだけでなく、地域間であっても、弱肉強食社会の勝者である強者(大都市部)は、負け組である弱者(地方)の底上げを図ることなどは決して期待し得ないことであり、新自由主義に基づく小泉構造改革は明らかにペテンのなにものでもないことがここでも証明されているのです。竹中をはじめとする新自由主義者らは自信家であり、雄弁で演説もうまく、多くの無知な国民は騙されてしまったのです。
新自由主義がもたらした実態は、国民が期待していたものとは全くかけ離れたものであったにもかかわらず、依然として小泉構造改革を支持する大きな勢力が自民党だけでなく、民主党にも存在するということです。特に、政権交代が期待されている民主党において小泉構造改革の総括が行われていないことは非常に残念なことです。
小泉政権が成立した当時、鳩山民主党代表は小泉首相との党首討論で小泉構造改革の中身の点検を充分にしないで、まず「賛成だ」として「小泉構造改革を進める小泉政権の背中を押す」とのエールを送ったのではないでしょうか。さらに、現在に至っても未だに民主党の前原グループを中心とした若手集団に小泉構造改革推進勢力が多く、小泉元首相との連絡を密に保っているのです。
問題なのは、民主党がかって賛同した小泉構造改革に対して、未だに党としての総括をしないで曖昧にしていることなのです。
このような状態のままの二大政党間で総選挙しても、日本の進むべき道に関して国民が選択できる対立軸がなく、たとえ政権交代がなされたとしても日本の将来に大きな期待が持てないのではないでしょうか。
このような事態をもたらしているもう一つの大きな原因は、権力に迎合し、批判精神を欠落したマスメディアにあり、さらに小泉構造改革の功罪さえも総括しないマスメディアの責任は非常に大きいと言わざるを得ないのです。小泉構造改革に無批判で、かつ未だに事あるごとに小泉元首相を持ち上げるマスメディアやさらなる構造改革の徹底を唱える政治家に今後の日本の将来を委ねることは、日本社会崩壊という取り返しのつかない結末を迎える可能性が高く、極めて危険であると言わざるを得ないのです。
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